騎牟礼城(鎮西城)その2 -源為朝- ~岡城ヒストリー~

鎮西八郎源為朝

清和源氏の流れをくむ、源為義の子として生まれる。母は遊女で、いわゆる庶子であったという。
勇猛で傍若無人、およそ手のつけられない荒くれ者で親兄弟に対してもその姿勢は変わらず齢十三歳の時
ついに為義から勘当され鎮西(九州)*1に追放される。

武者らしき偉丈夫で背丈は七尺程(2m10cm)の大男、弓の名手として長く弓を引き続けた為か、左腕だけ右腕に比べて4寸(12cm)も長いという異形を備えていたと伝わる。

鎮西追放、九州平定、保元の乱

鎮西に追放された為朝は自身を鎮西惣追捕使・鎮西八郎等と称し、九州の豪族、菊池氏、原田氏たちと戦いを繰り広げ、わずか3年のうちに九州を平定してしまった。
この時に拠点としたのが、大分県竹田市会々にある騎牟礼城だったと言う。

香椎宮(福岡県福岡市東区香椎にある神社)の神人が為朝の傍若無人も余りある狼藉三昧を朝廷に訴え出たため
久寿元年(1154年)ついに出頭の宣旨が出されてしまう。
為朝はこれをはねのけ従わなかったが、翌久寿2年(1155年)に父為義が解官されてしまう。
これを聞いた為朝は帰参するため、九州の強者28騎*2を率いて上洛した。

その後、保元の乱で為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するも敗走する。のちに湯治中に捕縛されてしまうが、その武勇を惜しまれ助命され、弓が射てぬようにと左肘の間接を外され伊豆大島に流された。

肘が治るとすぐに暴れだし、伊豆諸島を支配下に置いた

為朝に追い立てられた伊豆諸島の豪族の訴えにより、嘉応2年(1170年)、為朝追討軍船20艘、兵500余騎が派遣され、観念した為朝は、実子を殺害し、自身も一矢報いて後自害した。*3
現在も伊豆大島で本土から来て現地の女性と結婚した「ためともさん」として慕われ、「鎮西八郎源為朝館跡」はポピュラーな観光地として親しまれている。

*1 太宰府が正式に太宰府と称されるまで鎮西府と呼ばれるなど、古代九州地方を鎮西と称した。
*2 九州28騎は後に平清盛の差し向けた騎馬上手の坂東武者200騎を相手に奮闘し23騎が坂東武者53騎を道連れに討死したと言われる。
*3 保元の乱の時、一矢で二人を射抜き、此の度、一矢で船を沈没させ大勢を殺したと自身の弓と戦に満足して果てたと言う伝承。


MAP 騎牟礼城・鎮西城


~岡城ヒストリーについて~

この記事は大分県竹田市にある国指定史跡「岡城」にまつわる歴史研究書籍・伝承・逸話を元に、各種の書籍と文献を参考資料として編集しています。
記述内容の誤りや、資料の信憑性、歴史考証の新たな発見と共に内容が修正されることがあります。
800年の時を超えて今に伝わったこの大切な史跡がこれから先も末永くその歴史と文化を伝えていく事を願って編纂編集に努めて参ります。


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