”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄 その2 -惟栄と源範頼- 文治元年 (西暦1185)頃

源平合戦(治承・寿永の乱)終焉後直前の元暦二年・文治元年 (西暦1185)頃の
緒方三郎惟栄と源範頼(みなもと の のりより)のお話。
タイトル写真「原尻の滝」-大分県豊後大野市緒方町原尻-

文治元年源平合戦(治承・寿永の乱)終了までの流れ(ダイジェスト)

元暦2年(文治元年・寿永4年*1)
2月 1日 葦屋浦(あしやうら)の戦いで源範頼に九州の平氏が敗れ敗走する。
2月19日 屋島(やしま)の戦いで源義経に四国の平氏が敗れ敗走する。
3月24日 壇ノ浦(だんのうら)の戦いで源氏が勝利し平家滅ぶ。*2
治承4年(1180年)から始まった源平の長い戦いが終結する。*3


*1 元号:1185年に元暦2年から文治元年に変わった、寿永は平家側での同年の年号
*2 葦屋浦の戦い:筑前国の葦屋浦(福岡県遠賀郡芦屋町・西浜町・白浜町・幸町の港湾地帯)
  屋島の戦い:讃岐国屋島(現高松市)
  壇ノ浦の戦い:長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)
*3 義経の討伐を持って治承・寿永の乱終了とする見方もある。


葦屋浦の戦い前

時を遡り、元暦元年(寿永3年)1月(西暦1184)

源範頼と緒方三郎惟栄

九州でも源平の熾烈な戦いが繰り広げられていた、九州の平家討伐の任にあたるのは、源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄にあたる源範頼であった。
周防国より平氏が拠点として防衛する長門国赤間関から九州へ渡海しようとしたが、彦島に居座る平知盛(たいら の とももり)軍に行く手を阻まれ、寒さの中、兵糧心もとなく、平家の軍に苦戦を強いられていた。
将の中にも知れず関東に引き返そうと考えるものまで現れ初め、敗戦の色が濃厚となって来た源範頼へ、助けの手が差し伸べられた。
平家の支配の強い九州の中にあって平家に反旗を翻し戦いを繰り広げていた豊後之国の豪族、緒方三郎惟栄と臼杵惟隆の大神の兄弟である。

緒方三郎惟栄と豊後水軍

九州最強ともうたわれる豊後の水軍*1を擁する大神氏族の党首、緒方三郎惟栄はその「兵船82艘」*2を範頼に献上し、平家追討を大いに助けた。
周防国の宇佐那木上七遠隆から兵糧も得ることができた範頼軍は、周防国へ戻り準備を整え1月26日にようやく豊後国へ船出した。

源 範頼

源 範頼


*1 大野川流域と豊後水道を中心に海運水運が発達していた豊後の国は、そのまま船を軍役に動員でき、常時使用可能な大量の水軍力を保有していたと言われる。
*2 壇ノ浦の決戦時の船数、「源氏:830艘」「平氏:500艘」(諸説あり)を考えると、豊後水道域での平氏侵入地に備えて残す主力兵船の数も推察するに、大神氏の保有する豊後水軍の船舶数は当時の日本国内でも相当な数だったと思われる。また、太古から海洋交易が盛んだったと言わる豊後水道や、瀬戸内海を熟知した豊後水軍の兵による操船も、大いに役立ったと思われる。


緒方三郎惟栄館跡のアザレア
岡城ヒストリー「”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄 」シリーズ一覧


~岡城ヒストリーについて~

この記事は大分県竹田市にある国指定史跡「岡城」にまつわる歴史研究書籍・伝承・逸話を元に、各種の書籍と文献を参考資料として編集しています。
記述内容の誤りや、資料の信憑性、歴史考証の新たな発見と共に内容が修正されることがあります。
また「おそろしき者シリーズ」の源平合戦の描写は「平家物語」や「吾妻鏡」等の参考文献の中で、故人を偲び褒め称える表現も多く、時系列や実際の記録とは違う人物描写の部分がありますが、英雄譚としての逸話の部分も大切な郷土の記憶となるようにと、採用している部分がございます。その部分につきましては、可能な限り注釈にて、事実と創作を判断して頂けますように注意しております。
800年の時を超えて今に伝わったこの大切な史跡がこれから先も末永くその歴史と文化を伝えていく事を願って編纂編集に努めて参ります。


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