紅葉が終わり落ち葉の絨毯が広がる 天空の城 岡城 ドローン空撮 (4K) Vol.3
鮮やかな紅葉に包まれた日本100名城「岡城」の、本丸 二の丸 のドローン空撮(4K)の映像です。
ぜひご覧ください。
↓クリックで拡大(4k)
岡城.com YouTubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UCJ8tXR7-uRUdYyp0Thkhw1A?sub_confirmation=1
ドローン空撮・動画製作
㈱情報開発研究所
http://jouhou-kaihatsu.jp/works/drone-aerial/
西の丸の家老屋敷(中川覚左衛門屋敷跡~普請方跡です。
西の丸~普請方跡 の説明と見処
西の丸(西の丸御殿跡)
岡城の西の丸には、周辺に三つの家老屋敷・賄方跡・御殿跡等の遺構があります。広い間取りの屋敷跡と、複雑に入り組んだ迷路のような通路、眼下に見下ろす城下町の風景が、訪れる観光客を楽しませます。
西の丸御殿跡には平城的な殿舎があったとされ、山登りが好きで入山公と呼ばれる三代藩主 中川久清 の隠居所の為に寛文3年(1663)~寛文4年(1664)にかけて清久自ら普請を行いました。天和元年(1681)に久清公が亡くなると、年始行事や法事等、中川家や藩の行事が行われる場所となり、貞享元年(1684)に、藩主が本丸から西の丸御殿に住居を移し、その後は西の丸が岡藩の政治の中心となる。
家家老屋敷(中川民部屋敷跡)
岡藩三代目藩主久清公の子、家老中川民部(中川右近)の屋敷があった敷地跡、敷地の形敷石等が残り、秋葉社跡の流麗な石垣を撮影するのに良い場所。
また、西の丸の外郭からは竹田町の城下町、くじゅう連山や岡城の支城の騎牟礼城等を見ることが出来ます。
家老屋敷②(中川覚左衛門屋敷跡)
岡藩家老、中川覚左衛門の屋敷跡
家老「覚左衛門」とは世襲の家老が代々受け継いだ名前です。
中川覚左衛門の一族の祖は茶人の古田織部(古田重然)
古田織部の娘を初代中川秀成が養女とし、古田織部の弟の重続が婿になり、子孫が中川家の「外孫」として中川覚左衛門となった。
また古田織部の姉が藩祖「中川瀬兵衛清秀」の室であるため、古田氏と中川氏の結びつきはとても深い。
中川覚左衛門屋敷跡は間仕切りが復元され、板張りの館跡には、茶室も再現されている。
池のある小さな庭等もあり、当時の文化的な暮らしの名残を垣間見ることが出来ます。
古田 重然(ふるた しげなり、ふるた しげてる)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。一般的には茶人・古田 織部(ふるた おりべ)として知られる。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来している。千利休が大成させた茶道を継承しつつ大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・庭園作庭などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。
引用:古田 重然「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典 2016年12月13日 (火) 04:27 UTC」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%94%B0%E9%87%8D%E7%84%B6
埋門
普請方跡と家老屋敷(中川覚左衛門屋敷跡)の通路を立体交差させてている珍しい遺構。
賄方跡
場内の給仕や訪れた使節等を饗応する職務を行う場所。城に訪れる人達の待ち合わせ場所に使われた、井戸があり、火を日常的に扱う場所のため、常時火消し番が居たとされる。
地獄谷
岡城の北側にある、深い谷。
秋葉社
石碑に稲荷神社跡、説明書きに秋葉社跡と書かれている、稲荷神社は稲荷神社への信仰が厚かった中川氏の時代、秋葉社は全国各地に伝わる火伏せの神様を祀る古い神社。
普請方跡
藩の施設の設営、土木事業を管理していた場所現代の土木事務所に近い役割を担う。