山野城(やまんじょう)

阿蘇くじゅう国立公園の、くじゅう連山に属する大船山の裾野の山上にある朽網氏の居城。
峻険な山の上に広がる広大な山城、その姿が麗しいと文献に刻まれる。
朽網地域は、戦国時代のキリスト教の8大布教地としても知られる。
山野城は、朽網鑑康(くたみ あきやす)のときに改修され、一万田堀・志賀堀・入田堀・田北堀など、大友氏の有力家(南群衆)の名が付けられ、一説に大友氏南群衆の最重要防衛拠点とされる。


城主

朽網氏

関連武将

朽網鑑康(くたみ あきやす)

 朽網 鑑康は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。大友氏の家臣。法名は宗暦(そうれき)。
 大友氏一族入田氏の入田親廉(ちかかど、表記は親門とも)の次男。大友義鑑より偏諱を賜り、最初は入田鑑康、後に、朽網親満の謀反により絶えていた大友氏譜代の藤原姓古庄氏嫡流の朽網氏を継いで朽網鑑康と名のる。

 天文19年(1550年)の二階崩れの変の際に義鑑や兄親誠が亡くなったが、鑑康は義鑑の跡を継いだ義鎮(宗麟)に引き続き仕え、永禄12年(1569年)からは大友氏の加判衆を務める。門司合戦、菊池義武、秋月文種、土持親成、立花鑑載等の討伐に出陣。永禄12年(1569年)の多々良浜の戦いでは一萬田鑑実親子と共に毛利方の乃美宗勝、桂元重を撃退した。天正6年(1578年)、日向国耳川の戦いでは、志賀親守と共に肥後国方面軍の総大将を勤める。

 天正14年(1586年)の豊薩合戦の際は、既に隠居の身で病床にあった。居城山野城の支城・三船城を固めはじめたものの、兵が降伏しようとしたことに激怒、病をおして戦いに臨んだ。しかし三船城を守っていた嫡子鎮則は山野城へ撤収。共に篭城したものの、病死した。一説には、和睦を考えた鎮則の態度に憤って死んだともいう。

 鑑康の墓は、久住町大字有氏字岳麓寺2915にあり、碑銘は「朽網領主 救民三河守藤原鑑康公」とあり、墓の管理者は古庄姓である。

出典:朽網鑑康wiki
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%BD%E7%B6%B2%E9%91%91%E5%BA%B7

所在地

竹田市久住町大字仏原字山口

地図

写真


備考

大分弁で「~の」を「ん」と発音するために、山野城が「やまのじょう」→「やまんじょー」と呼ばれる。*山之(ノ)城と記録されていることもある。
麓には朽網の殿様が代々大事にするようにと定めた秘湯「七里田温泉」と「長湯温泉」がある。特に七里田温泉の「下ん湯」は、ソーダ水のごとく泡の立つ「強烈な炭酸泉」として、地元と一部の温泉マニアの中で有名、浴槽横に炭酸泉で気絶しないように注意を促す注意書きがある程である。温度はかなり低い。
長湯温泉Japan
http://nagayu-onsen.jp/
下ん湯
http://nagayu-onsen.jp/archives/173/


竹田市の岡城の周辺の山城、支城、狼煙台などの地図。

関連リンク:岡城周辺の山城と支城リスト(九州の大分県竹田市)



岡城.com志賀氏館に通じる山城ライン

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