NHK大河ドラマ真田丸と、岡城にまつわる人々の繋がりを紐解いてゆく特集。
第一回 上野国沼田(こうずけのくにぬまた)
NHK大河ドラマ真田丸の重要拠点上野国 沼田
NHK 大河ドラマ真田丸で、天正壬午の乱・第一次上田合戦・第二次上田合戦と、複雑な政治情勢と地勢的重要性から、幾度も戦闘が繰り広げられた関東の要衝が上野国沼田(こうずけのくにぬまた・現群馬県沼田市)です。
安土桃山時代末期、織豊時代の沼田城と城下町は、真田昌幸の長男真田信之(真田信幸)、次男真田信繁(真田幸村)の兄弟が設計し、作られたと言われています。ちなみに地形好きのタモリさんが学生時代“地形好き”に目覚めたという思い出の場所でもあるそうで、ブラタモリのルーツの町と番組HPにも書かれています。
さて、この上野国沼田と岡城に関係する人物とはと言うと、岡城築城伝説に名を連ねる豊後大野市の英雄「緒方三郎惟栄」です。
緒方三郎惟栄は二度、この上野国沼田への遠流を命じられています。
緒方三郎惟栄と上野国沼田
一度目は、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)いわゆる源平合戦の時
寿永2年(1183年)に平氏が都落ちした後に、筑前国の原田氏・山鹿氏の協力を得て勢力を盛り返し始めると、緒方三郎惟栄は豊後国の国司の藤原頼輔・頼経の親子から、平家追討の院宣及び国宣を受け、平氏を大宰府から追い出しました、その時、緒方三郎惟栄の治める豊後国大野郡緒方荘の荘園領主「宇佐神宮大宮司家」の宇佐氏は平家方だったので対立し、豊後の勢力を率いてついには宇佐神宮を焼き討ちしてしまいました。この神仏を恐れない所業に上野国沼田への遠流の刑が言い渡されましたが、先ほどの平家討伐の功によって許され、その後の葦屋浦の戦いで、平家を相手に苦戦していた源範頼(みなもとののりより)に、豊後から兵船82艘と船手を献上した後、範頼達の九州上陸とその後の侵攻を助け平家討伐に大いに功を立てました。
そして二度目の遠流は、治承・寿永の乱(源平合戦)が平家の滅亡で幕を閉じたあと、源頼朝と源義経の兄弟による争いが起きました。
この時に、緒方三郎惟栄は源義経を助けて九州に連れてこようとしましたが、嵐にもまれ離散、惟栄は捕らえられ上野国沼田へ流罪となりました。
このとき義経をかくまうために築城したのが岡城と言われています*。
そのあと、惟栄は許されて豊後に戻り佐伯荘に住んだとも、途中病死したとも、沼田で過ごしたとも言われています。
沼田藩と沼田城
真田丸の沼田城は、秀吉の北条氏討伐の後、昌幸の長男・真田信之が治めることになりましたが、関ヶ原の戦いの後は東軍についた信之が上田領も継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩し、真田信利(信之の孫)の代に独立し、沼田藩となった後、信利の暴政と10月納期の江戸両国橋架け替えの用材調達の遅延を理由に改易されて1681年~1703年の間、天領となります。
その後、本多家三代、黒田家二代、土岐家十二代と藩主が変わり、廃藩置県を迎えます。
沼田城は1916年、旧沼田藩士の家の久米民之助が城地を購入し、公園として整備して、10年後に沼田市へ寄贈されて、現在は沼田公園として親しまれています。
次回、NHK大河ドラマ 西郷どん岡城にまつわる人々の繋がり 西南戦争茶屋の辻の戦い
次回、「福島正則と志賀親次」
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