”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄、天神山に岡城を築く(伝承)その1
文治元年(西暦1185)頃、九州最強の武士団と謳われた豊後武士団を率いる武将が居た、名を緒方三郎惟栄と言う。
「嫗嶽大明神伝説*1」に語られる豊後大神氏の流れを引く豊後国37氏の姓祖「大神惟基」の五代孫にあたり
神裔”畏”しき者の末裔
と称される人物である。
元は「平重盛」の御家人であったが、治承~寿永年間(安徳天皇)源平の対立が激化し始めた頃、平家の勢力が強い九州と瀬戸内の中にありながら、平氏を離れ源氏に勢力を移した、世は乱れ飢饉と疫病が蔓延する地獄絵図の様相を呈する中でのことである。
当時宇佐宮緒方荘を本拠としていた惟栄だが、平家との間に年貢納入についての対立等、平清盛亡きあと衰退の色浮かぶも未だ栄華を誇り、驕り高ぶる平家による地方領主への専横に、どうにも我慢がならず、見切りをつけ反旗をひるがえしたのだ。*2
源平合戦の最中、九州にあって平家の勢力を寄せ付けず。源頼朝の書に「豊後の船だにあればやすきことなり」との記述が有るとおり、完膚なきまでに平家の兵を傷めつけ平家を恐れおののかせた。
平徳子(建礼門院)は後に後白河法皇に惟栄の軍勢に九州を追われ、脚は擦り切れ着物の裾が血で染まる程に必至で逃げ無ければならなかった恨みを述懐し、源平盛衰記には「惟義(惟栄 )と云う者は大蛇の末であれば身体も心も剛にして、九国をも打ち随へ、西国の大将軍せんと思う程のおほけなき者なり」と書かれる。
-つづく-
*1「大神惟基」を「嫗嶽大明神の化身、大蛇の子」とする伝説。
*2 源平盛衰記、吾妻鏡に記述あり。
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この記事は大分県竹田市にある国指定史跡「岡城」にまつわる歴史研究書籍・伝承・逸話を元に、各種の書籍と文献を参考資料として編集しています。
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800年の時を超えて今に伝わったこの大切な史跡がこれから先も末永くその歴史と文化を伝えていく事を願って編纂編集に努めて参ります。