豊後之国の郷土の英雄、緒方三郎惟栄と源義経のお話から
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源平の戦い終焉に向かう。文治元年(1185)
文治元年(元暦2年)源頼朝の元に集結した源氏一党は、葦屋浦(あしやうら)の戦いで九州、屋島の戦いで四国から平氏を倒し、遂に壇ノ浦の戦いを経て念願の平家打倒を果たし滅亡させた。
その中から、源九郎判官義経(源義経)「屋島の戦い」のエピソード。
今回は緒方三郎惟栄と豊後水軍のお話はございませんが、決戦の壇ノ浦に繋ぐ重要なハイライトです。
屋島の戦い
2月10日、葦屋浦の戦いに赴いた源範頼(みなもと の のりより)の苦境*1が報じられる。
範頼苦戦の報の中で範頼達が九州討伐を諦め戻ってくるとの噂も流れはじめた。
義経は、義仲に奪われた失地を回復し、勢力を立て直して来た平氏達の勢いが、ここで更に盛り返す事に脅威を感じ、京の治安に不安を訴える後白河院と貴族達が引き止める中、制止を振り切り出陣を決意した。
義経の覚悟
後白河法皇の使者から「大将が先陣となることはない」と京へ戻るよう伝えられた義経は「常に先陣に立ち討ち死にする覚悟をしてまいった。」と伝え
また、渡邊津を出航する際に、梶原景時との軍議の中で、景時の提案した「船の進退を自由にするための逆櫓をつける」の提案を「逃げ支度」と一蹴し、猪武者の振るまいと諌める景時に「猪武者でかまわない」と述べ、この戦への強烈な決意を示した。*2
*1 この時、すでに周防国で平知盛率いる平氏に苦戦を強いられていた源範頼は、豊後之国の豪族、緒方三郎惟栄と臼杵惟隆の兄弟から兵船82艘の献上を受け葦屋浦の戦いを勝利し、長門・豊前・筑前へと進軍していた。義経の屋島への航行時間や緒方三郎惟栄への勲功を賞する後白河院庁下文の発行日などを考えると、記録の中の時系列が前後している部分があると思われる。
*2 「平家物語の逆櫓論争」、現在は吾妻鏡と玉葉の記述で景時はこの頃は範頼軍と行動していたと言う見方が有力。
義経、四国へ
2月18日午前2時、諸将暴風雨により出港を見合わせる中、義経は郎党に弓で船頭を脅させ、わずか150騎を船5艘に乗せ強行せり。
同日午前6時阿波国勝浦に到着*1
*1 当時の通常の航行時間は3日、現代のフェリーで3:30程の時間がかかるので、ここでも平家物語や吾妻鏡等の時系列の記述が混乱していると思われます。この記事(おそろしき者シリーズ)では参考にしている軍記物語等の記述で使用されている日付を記述し注釈をいれています。
義経、近藤親家を味方につける
勝浦に上陸した義経は、現地の武士近藤親家を味方に引きこむ事に成功する。
折しも、屋島の平氏は、大部分の3000騎を伊予国の河野通信討伐へ割いており、屋島の守りには1000騎程しか残って居なかった。
残る平氏の軍も、阿波国、讃岐国各地の津(港)に100騎50騎と分散して配備され、屋島自体は手薄になっていた。
屋島-奇襲-
絶好の機会を得た義経と親家達は、手始めに平氏方に与する豪族、桜庭良遠の館に襲いかかり打ち破り、そのまま徹夜で讃岐国へ進撃し、翌日19日には屋島の対岸に至った。
屋島は干潮時には騎馬で浅瀬を渡って行けることを知らされた義経は「勝機ここにあり」と強襲を決意する。
寡兵であることを悟らせないため、義経の軍は周辺の民家に火をかけ大軍の襲撃を演じ、一気呵成にと屋島の中核、内裏へと攻め入った
暴風雨の中上陸してきた義経の軍に、海上への警戒に気を取られていた平氏の軍は混乱し、内裏を捨て庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃れた。
扇の的「平家物語」から
海上に逃れたものの、源氏の軍が少数と知った平氏の軍は、船を屋島の東、庵治半島の岸に寄せ付け激しい矢による戦を仕掛けてきた、
平氏の猛攻に義経の身も危うくなり、佐藤継信が義経の盾となり平氏随一と言われた平教経の矢を受け討ち死にした。*1
この時、佐藤継信の弟佐藤信忠に、平教経の童「菊王丸」も射られ死んでいる。*2
那須与一、扇の的を射る
夕刻になり休戦となると、平氏軍の中から美女の乗った小舟が現れた、船には竿が立てられ穂先に平家の印の紅色の日の丸の扇が立てられていた。
「此の扇を射ってみせよ」
夕刻の休戦の中、夕日にきらめく紅の的、敵は寡兵と見切り余裕を取り戻した、平家からの挑発である。
外せば源氏の名折れ、義経は手練の武士をと畠山重忠に命じるが、重忠は辞退する。重忠は代わりにと下野国の那須十郎を推すが十郎も手傷を負い弟の那須与一を推した。
与一、やむなくこれを受ける。
「南無八幡大菩薩、我が国の神々よ、願わくば、あの扇の中心を射抜かせたまえ」
与一、かぶらの矢をつがえ渾身の力を込めて引き絞り「ヒョウッ」と矢を放つ。
見事、矢は扇を貫き、扇は空に弾かれ夕日の光にきらめきながら、春風のなか一度二度ひらひらと舞い、サッと海へ落ちていった。
沖の平氏は船端を叩いて感嘆し、陸の源氏はえびらを叩いてどよめいた。*3
平氏の中から齢50程の黒革おどしの鎧を着た武者が、扇の的のあった船の上で舞を舞い始めた。
義経は、与一の妙技を見て、賞賛の舞いを踊る武者をも「射よ」と、伊勢三郎義盛から与一に伝え、彼を射させた。
黒革おどしの鎧武者が船底に倒れると、平氏の船は静まり、また陸の源氏はえびらを叩いてどよめいた。
この仕打に怒った平氏の猛攻撃を受けるが、義経達はその攻撃をしのぎ切り上陸を許さず。*4
源氏の増援を警戒した、平家は全軍船を揃えて長門国へ向う。
そして、戦場は決戦の海
壇ノ浦へと移る。
*1 吾妻鏡では、平教経は一ノ谷の戦いですでに討ち死にしている。
*2 菊王丸は屋島東町の檀ノ浦で弔われている。
*3 平安時代の矢筒、鏃部分を収める箱と矢を束ねる紐やひごで出来ている。
*4 「弓流し」のエピソードがある部分。
平家物語「扇の的」
平家物語の「扇の的」のくだりを現代語を入れずに掲載します。
情景の描写が美しく、緊迫の場面の表現も是非原文を読んでいただければと思います。
扇の的本文
ころは二月十八日の酉の刻ばかりのことなるに、をりふし北風激しくて、磯打つ波も高かりけり。
舟は、揺りすゑ漂へば、扇もくしに定まらずひらめいたり。
沖には平家、舟を一面に並べて見物す。
陸には源氏、くつばみを並べてこれを見る。
いづれもいづれも晴れならずといふことぞなき。
与一目をふさいで、
「南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ。
これを射損ずるものならば、弓切り折り自害して、人に二度面を向かふべからず。
いま一度本国へ迎へんとおぼしめさば、この矢はづさせたまふな。」
と心のうちに祈念して、目を見開いたれば、風も少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。
与一、かぶらを取つてつがひ、よつぴいてひやうど放つ。
小兵といふぢやう、十二束三伏、弓は強し、浦響くほど長鳴りして、あやまたず扇の要ぎは一寸ばかりおいて、ひいふつとぞ射切つたる。
かぶらは海へ入りければ、扇は空へぞ上がりける。
しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさつとぞ散つたりける。
夕日のかかやいたるに、みな紅の扇の日出だしたるが、白波の上に漂ひ浮きぬ沈みぬ揺られければ、沖には平家、ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏、えびらをたたいてどよめきけり。
あまりのおもしろさに、感に堪へざるにやとおぼしくて、舟のうちより、年五十ばかりなる男の、黒革をどしの鎧着て、白柄の長刀持つたるが、扇立てたりける所に立つて舞ひしめたり。
伊勢三郎義盛、与一が後ろへ歩ませ寄つて、
「御定ぞ、つかまつれ。」
と言ひければ、今度は中差取つてうちくはせ、よつぴいて、しや頸の骨をひやうふつと射て、舟底へさかさまに射倒す。
平家の方には音もせず、源氏の方にはまたえびらをたたいてどよめきけり。
「あ、射たり。」
と言ふ人もあり、また、
「情けなし。」
と言ふ者もあり。
岡城ヒストリー「”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄 」シリーズ一覧
~岡城ヒストリーについて~
この記事は大分県竹田市にある国指定史跡「岡城」にまつわる歴史研究書籍・伝承・逸話を元に、各種の書籍と文献を参考資料として編集しています。
記述内容の誤りや、資料の信憑性、歴史考証の新たな発見と共に内容が修正されることがあります。
また「おそろしき者シリーズ」の源平合戦の描写は「平家物語」や「吾妻鏡」等の参考文献の中で、故人を偲び褒め称える表現も多く、時系列や実際の記録とは違う人物描写の部分がありますが、英雄譚としての逸話の部分も大切な郷土の記憶となるようにと、採用している部分がございます。その部分につきましては、可能な限り注釈にて、事実と創作を判断して頂けますように注意しております。
800年の時を超えて今に伝わったこの大切な史跡がこれから先も末永くその歴史と文化を伝えていく事を願って編纂編集に努めて参ります。