”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄 その8 -「壇ノ浦の戦い」-平家滅亡-

壇ノ浦の戦いで平家が滅亡するまでを、平家物語の中で語られる平知盛のエピソードを中心に紹介。
平知盛(たいらのとももり)は、平安時代末期の平家一門の武将、平清盛の四男。
世に新中納言と称され、軍記物の多くに実質的な平家の総大将として書かれ、平家物語では幾多の戦いで源氏を苦しめた”平家の名将”として書かれる。
治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての、6年間にわたる源平合戦(治承・寿永の乱)を闘いぬき、平家を支え続けてきた名将平知盛も、ここ壇ノ浦で、ついに最後の時を迎える。


-壇ノ浦の戦い-

源義経率いる源氏の奇襲を受け、屋島を捨て九州の平家勢と合流し、体制を立て直そうと落ちてきた安徳天皇を擁する平家であったが、緒方三郎惟栄の提供した豊後水軍の支援と補給を受けた源範頼の陸路からの侵攻で、九州の平家勢も彦島の拠点を残すのみの状況となっていた。
残された道は決戦に勝利するのみ、彦島に集結した平家の軍は総力を集結し、源義経率いる源氏を迎え撃つべく壇之浦の戦いに挑む。

-平家出撃-

3月24日、攻め寄せる源義経の軍勢を迎え撃つため、知盛率いる平家の軍は彦島を出撃した。
午前、(吾妻鏡)*1、両軍関門海峡壇ノ浦で衝突。

源平両方陣を向かい合わせ、時の声を上げる。
上は梵天までも聞こえ、下は堅牢地神も驚くほどの大音声であった。

平知盛-号令-

時の声が静ると、平知盛は、船の屋形に進み出て、大声を上げ、
「天竺震旦(てんじくしんたん)*2、我が国日本の、並びなき名将勇士と言えど、運命が尽きれば力も及ばぬ。だが平家の名が亡びることはやるせない!東国の者どもに弱気を見せるでないぞ!命を惜しむな!力の限り戦をせよ者どもよ!ただ思うことはこれだけよ!」
と叫び、一呼吸置いて
「分かったか、侍たちよ!」
と命令をくだした。

応!!

平家の勇者たちは、水面が泡立ちそうになるほどの大声で応えた。

「源氏の兵に海戦は及ばぬ」「義経を抱えて海に沈めてしまえ」と、士気も盛んに迫り来る源氏の船に向かって行った。

*1 玉葉では午の刻午前12時頃。
*2 天竺=インド 震旦=中国


-遠矢 その壱-

坂東武者(源氏)は”馬の上”では達者だが、船の上では”木の上の魚”と揶揄し、海の戦になれた平家は、慣れない海の戦に戸惑う源氏の船を押し返す。

-和田小太郎義盛-

潮流の緩い岸近くまで押し戻され、苦境に立たされた源氏勢の後ろに一人の武者が現れた、源氏の精兵であり手利きの*1「和田小太郎義盛」である。
陸から攻める役割を担った”源範頼(みなもとののりより)”と共に陸から平家を攻める和田義盛は、船には乗らず、岸辺に陣取り馬上で鐙(あぶみ)を外し、馬の背に合わさるほどにのけぞり、天を仰ぎながら弓を放ち続けた。
三町(約300m)の内のものを、外すことはないと言われる矢を、空から射掛けられ、旺盛な士気であった平家勢もこれには参ってしまいそうだった。
ひとしきり矢を射かけた義盛は、ひときわ遠くまで飛んだ矢を指し平家側に向かって手招きをして叫んだ。

「その矢を返せ!」

同じ距離から矢を飛ばし、戻せる者が平家側の将兵に居るかと挑発したのだ。

源氏を迎え撃つために、安徳天皇を唐船から移し、唐船に雑兵を配し、平船に武者を乗せ、手柄を競い攻め急ぐ源氏を唐船におびき寄せる、周到な策と共に優位に源氏を攻めて来た平家であったが、ここで陸からの攻撃に気勢を削がれてしまっては良くない。
もう後戻りのできない平家は、この戦いで完膚なきまでに源氏を討たねばならないのだ。

-仁井紀四郎親清(仁井親清)-

平知盛は兵士にその矢を抜かせ、射返すように命じた。
その矢は普通の矢より長く尋常の弓では引くことさえままならぬ物であり、篦(やがら)の先端から拳一つ*2の所に「和田義盛桓武平氏」*3と名が漆で書かれていた。
平家勢の中にも精兵は数多く居たが、義盛程に遠矢が放てる名手は居なかった。
腕試しの挑戦に怯んでは士気が下がる、ここで気勢をそがれては、彦島のみしか拠るところのない平家は挽回する手立ては無く、いずれ滅亡してしまう。
平家の頭上に暗雲が立ち込めたかのように、重い空気が包む。

しばらくして伊予国の住人、仁井紀四郎親清(仁井親清)と言う武者が知盛の船にやってきた。

「私がその矢を賜りましょう」

仁井親清、この矢を知盛より賜ると、ヒャウッと射返した。
矢は空を切り裂き三町余りを飛んで、和田義盛の後ろ一反(六間=約11m)ほど後ろに居た、三浦石左近太郎の左腕に深々と刺さった。

「なんということだ、和田殿は、己ほどの弓使いはいないと思っていたのに、恥をかいたしまった。」
三浦石左近太郎の手勢の者たちが、矢を受けた三浦の元に集まって和田義盛を笑った。

思わくが外れ、味方にまで笑われた義盛は、このまま引き下がることは出来ないと、馬から小舟に乗り移り漕ぎ出して、群がる平家勢の軍船の中に進んでいった。
平家の軍勢の中を進みつつ、ひっきりなしに矢を射掛け、平家の兵をバタバタと射倒して行ったが仁井親清に潰された面目はもどらない。

*1力が強くまた技巧に優れたもの。
*2矢竹の先端から拳一つ分の距離
*3和田の小太郎平たひらの義盛、俗に源平合戦と言われるが、両氏の中にも相互に氏の違う勢力に味方すものは居た。


-遠矢 その弐-

そのような中、源義経の乗った船に、これもまた更に大きな白い矢が突き刺さった。
義経が矢の飛んできた方を見ると、平家側の武者が和田と同じように「その矢を射返してみろ」と手招きをしている。
平家勢に押され窮地に立ちつつあった源氏も、ここでこの挑戦に屈しては、さらなる苦境に立たされるのは必至の事、艱難辛苦の末、やっとの思いでここまで追い詰めた平家にむざむざと負けるわけには行かない。

-甲斐源氏 浅利与一-

「味方にこの矢を射ることができる者はいるか!」

義経も知盛と同じように、後藤実基を呼び矢を射返せる者を尋ねた。
実基は「甲斐源氏の、浅利与一殿*1こそ精兵の手利きです」と答え
「ならば与一を呼べ!」と浅利与一を呼び寄せ
「与一よ、この矢が沖より射られて来た、矢を射た者がこの矢を返してみよと手招きしている、お主が射返してくれぬか」
と頼むと、浅利与一は承知して、矢を手に取り、矢の作りを確かめる、先に和田義盛の射た矢より大きい矢で和田義盛に見事に恥をかかせた「仁井親清」の名が書かれていた。

一通り矢の具合を確かめた浅利与一は
「この矢は作りが悪く短いので、射返すには和田義盛殿の矢を所望したい」と言って、和田義盛から更に大きな矢を貰い受け、これまた尋常の大きさではない九尺の弓*1につがえ打ち放った。
浅利与一の矢も四町余り(400m以上)飛び、大船の舳先に立って事を見守っていた、仁井親清の真中を見事に射抜き、船底に真っ逆さまに射落とした。
浅利与一も精兵の手利き、二町の距離を駆ける鹿を外すこと無く仕留める「強弓の者」と称される者だった。浅利与一は、平家側からの挑発を和田義盛の矢で退けることで、源氏の面目をみごとに立てたのだ。

*1 甲斐源氏の浅利義遠の事(那須与一とは別人)、奥州攻めまで従事しその強弓で手柄を立てた。
*2 当時の通常の大きさの大弓は七尺三寸ほど。


-宣-

那須与一の弓でひとまず決着の付いた、弓の挑発の応酬も、両軍の形勢を大きく変える事は無かった。
その後は、源平の兵たちは互いに怖れず、命も惜しまず攻め戦い続けたが、平家の軍の勢いは良く、源氏はどこかに十善帝王(安徳天皇)が三種の神器と共におられるので、帝に何かあっては大変だと、思うように攻めることが出来ずに居た。

-吉兆-

その戦いの最中、空に白雲かと思えるものがひらひらと漂い、源氏の船の舳先に舞い降りた、それは主のわからぬ白旗であった。
源義経は「八幡大菩薩から源氏への賜り物ぞ!」と兜を脱ぎ手口を濯ぎ清め、旗を拝み、源氏の兵たちもそれに習った。

-凶兆-

同じ時、平家の船に向かってイルカの大群が泳いできた、平宗盛(平家の棟梁)は、小博士(陰陽師と思われる)安倍晴信を呼んで、「いるかは珍しくないがこのような事は初めてだ」と、この異変の意味を占わせた。
安倍晴信は、「このイルカが源氏に向かえば源氏は滅び、平家の元を過ぎれば平家の戦は危ないと思われます」と宣(占いの結果)を伝えている間に、イルカ達は平家の船の下を過ぎていってしまった。
宗盛には、この世の時が平家の亡びに向かうように流れているように思えた。


-裏切り-

田口成良(阿波民部成良)は、この三年間、平家に味方し忠義を立ててきた、しかしこの混戦の中、嫡子の田口教能が源氏に生け捕りにされると、あっさりと心変わりをして源氏に同心(裏切)してしまった。
これを見て平知盛は怒り心頭
「あの時、成良を切って捨てればよかったのだ!」と、吐き捨てるように言った。

-田口成良-

時を戻して開戦後、平知盛が号令を発した後、源平の弓比べの前の頃。

平知盛は平家の棟梁平宗盛の船に向かい、戦いの手を緩め動きのおかしい田口成良の裏切りの疑いを宗盛に伝え、田口成良を呼びつけ本意を正して成敗するように進言していた。
平宗盛は田口成良を呼び寄せ本意を正すと、その場で太刀の握りを割れんばかりに握りしめ「討ち果し」の下知を願う知盛を「田口成良の忠節に疑いはない」となだめ、田口成良に持ち場を頼むと返してしまった。
田口成良は自陣に戻ると、知盛が危ぶんでいた通り、源氏に寝返ってしまった。

-逆転-

この田口成良の裏切りにより、平知盛のたてた唐船に源氏を誘い込み周囲から討つ策は敵の知る所となり、更に吉兆を得て源氏の勢いは増し、裏切りに足元をすくわれ無策となった平家側は劣勢となった。戦いの趨勢は決まり、ついに平家滅亡へと時は流れ始めた。

平家方の戦略は、位の高い武者を兵船に乗せ、身分の低い雑兵を唐船に乗せ、源氏に平家の中核の唐船を攻めさせ、外から主力の武者の兵船で取り籠めて討つ策略であったが、田口成良の裏切りでその策も敗れ、源氏は唐船に目もくれずに、平家の将達が変装して乗っていた兵船を攻めた。
形勢が崩れ、平家が劣勢となると、平家側に味方していた四国と鎮西(九州)の軍勢も源氏に味方し、君(安徳天皇)に向かって弓を引き、主(平家)に対して太刀を抜いた。
戦況甚だ旗色悪く、総崩れとなった平家の兵は陸に逃げようとして叶わず、水際に逃れれば源氏の矢に狙われ、源平の戦もこの日を限りと思われた。

-平家殲滅-

戦の趨勢も決し、為す術もなくなった平家の船に源氏の兵が乗り込みはじめ、水手(漕ぎ手)梶取りまでも切り捨て射殺され、船を立て直すこともできずに、皆船底に皆倒れ伏して行った。
常時の戦の習わしで禁じられている非情の事である、後に室町幕府を開く源氏による
「平家殲滅」が、始まったのだ。


-平知盛掃除を始める-

新中納言・平知盛は、小舟に乗り安徳天皇の乗る御所の船に向かい、船の者達に言った。
「世の中の今はこのようです。見苦しい物は総て海に投げ入れて、船をきれいにしてください」
平知盛は、船底を掃いたり、拭いたり、塵を拾って、船中をくまなく駆けまわって、自ら掃除をしはじめた。

月岡芳年武者无類 新中納言平知盛、船の掃除をする平知盛

月岡芳年武者无類
新中納言平知盛

その様子を見て女房たちが尋ねる。
「これはこれは中納言殿(平知盛)、戦の様子はどうなっていますか?」

知盛は笑いながら
「もうすぐ珍しい東男(源氏)が、ご覧になれますよ!」
と言って一層大きな声でカラカラと高らかに笑った。

「この期に及んで何という冗談を!」
女房たちも平家の敗北を悟り、これから身に起きる不幸とその恐ろしさに喚き叫び始めた。

-先帝御入水-

日頃より「よもや」とこの時を予期し、覚悟もしてきた二位殿(安徳天皇の祖母、清盛の妻平時子、建礼門院の生母)は、身を正し、安徳天皇に伊勢の神と仏の神に暇の願いと身を託す祈りを捧げるように勧め、幼い帝を抱きしめ神器と共に入水し、深い海の底、帝と共に隠れ消えた。*
幼い帝が海にお隠れされると、平家の武者たちはみな、船の錨(いかり)や鎧を重りにして、ある者は敵を道連れに、ある者は手を取り合って次々と帝に続き海に身を投げました。

*
”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄 その6 -平家物語巻第十一「先帝御入水」-
平家物語巻第十一先帝御入水


-能登殿最期-

幼帝や平家の棟梁の平宗盛はじめ平家一門が次々と身を海に沈めるなか、平教経(たいらののりつね・能登殿)だけは一人になっても戦い続けていた、およそ平氏一の勇者、「たびたびの合戦で一度の不覚も取ったことはない」「王城一の強弓精兵」と言われた平氏随一の猛将である。矢を射続け坂東武者たちを射落とし、矢が尽きれば、大太刀、大長刀を左右の手に持ち、敵を斬り捨て続けた。
これを見た平知盛が使いを出して
「もう罪つくりなことをするな、教経の相手が出来る敵でもあるまい」と伝えると。
「ならば」と平教経は源氏の兵船に飛び移り、敵の大将「源義経」を追いかけた。
一度は義経を追い詰めたものの、義経はひらりひらりと船を飛び移り逃げてしまった。
身の軽さで義経に敵うものは居ない。
義経を逃してしまい、もう討つ事は叶わぬと悟った教経も”今はこれまで”と観念し、源氏の強者三人を道連れに海に入った。*

*
”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄 その7 -「壇ノ浦の戦い」能登殿最期-
「壇ノ浦の戦い」能登殿最期、平家物語。


-見るべきほどの事をば見つ-

生来、決して強い体ではなかった、松葉杖をつく姿も多く見かけられ「松葉殿」と揶揄されることもあった。
しかし、平清盛が築き上げ平家が隆盛を極めた時代を受け継ぎ、兄の平宗盛と共に衰退の一途をたどる平家を、命を燃やして支え続けて来た。
そして今、帝がお隠れになり、一族郎党が見事に果てる姿を見送り、新中納言・平知盛は、自らも”今”を最期の時と定めた。

「見るべきものはすべて見た、今はただ自害しよう」

そう言うと、乳母子*の伊賀平内左衛門家長(平家長)を呼び、尋ねた。
*自分を育てた乳母の子供(乳兄弟)、兄弟のように親しくなり、平知盛と平家長のように信頼しあう関係になることが多かったと言われる。服部氏は家長を開祖としている。

山口県下関市みもすそ川公園の平知盛像

山口県下関市みもすそ川公園の平知盛像


-約束 平知盛の最後-

「日頃の約束を覚えているか」

平家長は自身の母が乳母となり、子供の頃から乳母子として平知盛と共に歩んできた。利かぬ体を押して、平家の運命に逆らい戦い続けた平知盛の姿も見てきた。”知盛が死を覚悟した時”が自らも死ぬ時である。
「言うに及びません」
そう答えた後、平家長は知盛に鎧を二両着せ、自らも二両の鎧を着た。

病弱な身をものともせずに平家を支え、幾度と無く源氏を苦しめ続けた将と、その将を支え続けた乳母子の武者は、共に強く固く手を組み合い、帝と先立った平家の者達の元へと、海の中に身を沈めた。

兄の平宗盛を支え、源氏に相対し一歩も引くこと無く、政治に戦場にと戦ってきた”実質的な平家の柱”、新中納言・平知盛の最後を見送ると、周りに居た二十人ばかりの平家の将兵も、知盛と家長の後を追って海に消えた。
平知盛 享年34。

-平家滅亡-

海の水面は、切り捨てられ、かなぐり捨てられた平家の赤旗が無数に漂い、秋の竜田川の紅葉場を、嵐が吹き散らしたかのうようだった。
水際に寄せる波は、薄紅色に染まっていた。


祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。


-「平家物語」祇園精舎-


”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄 その8-「壇ノ浦の戦い」-平家滅亡-
-終-


~”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄 その8-「壇ノ浦の戦い」-平家滅亡-について~

ご覧頂きありがとうございます。今回の岡城ヒストリー「”恐ろしき者の末”緒方三郎惟栄 その8-「壇ノ浦の戦い」-平家滅亡-」は、平家物語の巻第十一「壇ノ浦合戦」「遠矢」「先帝身投」「能登殿最期」「内侍所都入」を元に、壇ノ浦合戦で平家が滅亡するまでのお話を「平知盛」の姿をダイジェストで追って紹介するために、原本の訳ではなく「短編小説」に近い形で記述させて頂きました。心象や情景の表現になどにオリジナルの部分が多々ございます。稚拙にて恐縮でございますがご容赦の程、お願い申し上げます。

~岡城ヒストリーについて~

この記事は大分県竹田市にある国指定史跡「岡城」にまつわる歴史研究書籍・伝承・逸話を元に、各種の書籍と文献を参考資料として編集しています。
記述内容の誤りや、資料の信憑性、歴史考証の新たな発見と共に内容が修正されることがあります。
また「おそろしき者シリーズ」の源平合戦の描写は「平家物語」や「吾妻鏡」等の参考文献の中で、故人を偲び褒め称える表現も多く、時系列や実際の記録とは違う人物描写の部分がありますが、英雄譚としての逸話の部分も大切な郷土の記憶となるようにと、採用している部分がございます。その部分につきましては、可能な限り注釈にて、事実と創作を判断して頂けますように注意しております。
800年の時を超えて今に伝わったこの大切な史跡がこれから先も末永くその歴史と文化を伝えていく事を願って編纂編集に努めて参ります。


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